名残

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日記 (2021/06/21)

お昼に起きて、夕方にロードバイクに乗って近所のコンビニまで行った。欲しかった VTuber チップス第3弾(今日発売だったやつ)は見つけられず、結局 LINE PAY の残高を追加する手続きだけして帰った。ド田舎のコンビニは数日遅れて新商品が並ぶのでそもそもあまり期待はしていなかった。明日も天気が良ければ運動がてらコンビニに行こうと思う。

夜には PC を開き、Auth0 という認可認証の SaaS に初めて触れてみた。ほんの数十分でSPAでのログイン機能を実装できて拍子抜けした。OpenID Connect あたりの技術を、実際に手を動かしながら学ぶ必要性を感じた。

日付が変わる少し前には「生の短さについて」の続きを読み始めた。ここにきちんとまとめる気になれなかったのは、今日読んだ部分が正直面白くなかったからだ。とにかく似たような例示が多くてさすがにくどいと感じて斜め読みした。目標を示さずに初っ端から具体例ばかり長々と書いてしまうと読者の関心を著しく失うという教訓にはなった。今日読んだ部分の内容をすごく雑にまとめると以下のようになる。

  • (第3章) 生を浪費してしまうのは、いずれ死ぬものであるかのように全てを恐れて、不死であるかのようにすべてを望み、若いうちにしかできないような事を老後に先延ばしするからだ。死すべき身であることを失念しているのは愚かだ。
  • (第4,5章) アウグストゥスキケローのような高い地位の人々は、そろって「閑暇」を称え切望していた。それは、栄えた者は誰にも影響されなくともいずれ自壊することをわかっていたためで、時としてその頂きから降りたいとも願っていた。この2人は終身歴史に翻弄され、ついに閑暇を得ることは出来なかった。生前は閑暇を夢見たり逆境に耐える自らを賞賛することで労苦を癒していた。閑暇こそが、万人の願望を叶えられた人の切なる願望であった。

生を浪費することの愚かさについて長いこと説教をした後で急に暇について話始めたのには、どんな意図があるんだろうか?先に挙げた「貧欲や怠惰で生を浪費する人々」の対極として「人の上に立ち力を尽くしていたが自らの平安は得られなかった人々」を挙げたのだろうか?そこらへんの繋がりや結びが少し気になってきたところで、今日はもう眠いので文字を打つのをやめて投稿ボタンを押す。